※以下は、基本的に旧拓心観HPからの引用になります。
心とからだを見失いがちな高度情報化時代の今、心身を覚醒させ、眠っている身体能力を引き出す古武術がブームです。その古武術の真髄を普段着感覚で誰でも気軽に学べるのが古伝空手・琉球古武道です。
古伝空手とは、明治の中期頃まで、琉球の士族階級の間で秘密裏に修練・伝承されてきた武術空手のことを言います。言い換えれば、徒手空拳術たる空手と、武器術たる琉球古武道の双方に共通する、古来伝承の術理を踏まえて、古武武道的に修練する空手の意です。
因みに、明治政府は琉球の日中両属関係を解消する布石として、明治五年、琉球国を琉球藩に改め、明治十二年、琉球藩を廃し、沖縄県を置くといういわゆる琉球処分を行っています。つまり、明治の大変革の波は琉球に直接におよぶことなく、外交・政治的にさまざまな紆余曲折を経た後、日本本土にやや遅れて到来したということです。
そのゆえに、古来、秘密裏に行われてきた古伝空手・琉球古武道もまた明治の中期ごろまで、門外不出として人前で行われることは決してなかったということであります。
この古伝空手・琉球古武道のいわゆる秘伝の根源は「型」にあり、とりわけ型の一連の所作に秘められている「武術的思想」と「体の用法」にあります。これは直接に説明(いわゆる口伝)を受けなければ絶対に分からないという類のものであり、まさに、七百年の歴史をもつ古伝の古伝たる所以(ゆえん)であります。言い換えれば、演武する型の所作は同じであっても秘伝が理解されているかどうかとは全く別物ということです。
因みに琉球武術は、徒手空拳術(古伝空手)と武器術(琉球古武道)の二つから構成されておりますが、両者は、その武術的思想と体の用法を同じくするものであるため共通の原理が働いております。
言い換えれば、両者は陰陽一体・車の両輪のごとき関係にあるため、本来、これを別々なものとして論ずること自体に無理があるのです。
そもそも、徒手空拳術たる拳法は、戦場における対敵技術の重要度という意味においては、例えば弓矢・剣・刀・槍・棍などの武器術に比べ下位の技術に位置づけられるものでありますが、古来、中国武術では、拳法が古い伝統を有する武術として確固たる位置を占めその独自性を示しています。
言い換えれば「拳法は大軍が武器を持って戦う戦場では実際に用いることは少ないが、対敵技術の中心たる弓矢・剣・刀・槍・棍などの武器術を鍛錬するための基本としては最適の武術である」ということであります。つまりこのことは、拳法が上達すれば武器術も上達し、武器術が上達すれば拳法のより深い理解と上達が得られるため、さらに武器術の上達が促されるとという循環往復して尽きることのないスパイラルな上達構造がその背景にあるということを示唆するものであります。
中国拳法を源流とする古伝空手・琉球古武道はまさに上記のごとき思想を色濃く受け継いで発展してきたものであり、言い換えれば、同一の武術的思想と体の用法をもってその術理が組み立てられている古伝空手と琉球古武道は、本来、全く同じものである、ということになります。
逆に言えば、琉球古武道の棒(棍)術は総合技術、サイ術は手刀系の技術、トンファーは裏拳および肘系の技術、鎌術は掛け手・繰り手系の技術ということになります。
この両者の陰陽一体・車の両輪関係を示す具体例は随所に見られるところでありますが、一例を挙げれば次ぎのようになります。
①古伝空手の捌きと武器術の捌きのは全く同じあるため、(捌きに関して言えば)武器術の稽古は即、古伝空手の捌きの稽古であり、古伝空手の稽古は即、武器を使うための稽古ということになる。
②古伝空手の前手突き(あるいは逆突き)による腰の使い方、上半身の所作は、棒の前手突き(あるいは貫き突き)による所作と全く同じであること。
③古伝空手の中段外受け(あるいは内受け)による腰の使い方、上半身の所作は、棒の中段外受け(あるいは内受け)による所作と全く同じであること。
④古伝空手の上段受け(あるいは外受け・内受け・下段受け)による腰の切り方、上半身の所作は、サイのそれと全く同じ所作であること。
⑤古伝空手の型「ジオン」に示されている、上段諸手交差受けから右上段裏拳打ち・左上段受けまでの所作の意味は、まさにサイ術の開き受け・上段打ちとその武術的思想・体の用法を同じくするものであること。逆に言えば、武器術たる釵の開き受け・上段打ちの術理が理解されて初めて、徒手術たる「ジオン」のこの所作の意味が理解されるということである。
その意味において、一般には空手の技と簡単に言うが、その実は、武器術の原理が先か、古伝空手の原理が先か、一概には言い切れない歴史の重みと術理の深遠さが(言わば隠し言葉として)その中に秘められているのである。空手の真の理解のために武器術の修練が不可避とされる所以(ゆえん)である。
⑥ヌンチャクの武術的思想と体の用法は「攻撃技のみで受け技が無い」と言われているが、その真意は、古伝空手の捌きの原理が理解できて初めて理解されるという関係にあること。逆に言えば、ヌンチャクの武術的思想と体の用法は、彼のブルースリーが映画で示したようなようなやり方とは似ても似つかぬものということである。
⑦古伝空手の逆下段・裏拳打ちによるよる腰の使い方、上半身の所作は、トンファーの逆下段・裏打ちと全く同じ原理であること。要するに、武器を持つか持たないかの違いがあるだけである。
⑧鉄甲術は古伝空手の動きを最もストレートに応用できる武器であること。要するに、古伝空手を習うということは、即、武器が使えるということと同義なのである。ただし、スポーツ空手(現代空手)にもこの原理が当てはまるかと言えば、答えはもとよりNOと言わざるを得ない。要するに、琉球古武道の武術的思想とスポーツ空手(現代空手)のそれは必ずしもイコールではないからである。
以上の例示から明らかなごとく、そもそも、古伝空手と琉球古武道は表裏一体のものとして稽古されるべきものであり、唇歯輔車(しんしほしゃ)のごとき相互の関係を通して循環往復して尽きることのないスパイラルな上達を図る仕組みになっています。七百年の長きにわたる先達のたゆまぬ努力によりこのように体系化された方法論は、まさに日本が世界に誇る文化遺産とでも言うべきものであります。
因みに、このような効率的かつ合理的な上達構造の方法論は、日本武道の淵源たる古流武術(いわゆる古武道)にも顕著に見られるところであります。たとえば、鹿島神流武術の場合で言えば、その体系の背骨とでも言うべき(徒手空拳たる)柔術の武術的思想と体の用法が体得されれば、その表芸の中核たる剣術はおのずから出てくると言われるような形態になっており、以下同様に、抜刀術・槍・薙刀・棒・杖などの武術体系が効率的かつ合理的に修得される仕組みとなっております。
極論すれば、剣術の免許が十年とすれば、槍の免許は三日あれば足りる、とまで言われております。要するに、使う武器の長さ・形状・使い方などが異なるだけでそこに流れている武術的思想と体の用法は共通しているため、とりわけその特殊性や相違点を良く弁(えて稽古すれば足りるというわけであります。
なお、江戸時代に盛んに行なわれたという武者修行の本来の意味は、このような、一つの流派の武術的思想と体の用法の体系を十分に修得した後(守の段階)、自流派と比べて他流派の体系はどのようになっているのかを学び、その比較研究するために行うものと解されます(破の段階)。その結果としての助長補短の果てに、世に、いわゆる流祖と称されるような優れた人物は、やがて自流派の体系をも超え新たな体系を創出するということになるのです(離の段階)。
いずれにせよ、上記の「守・破・離」のごとく、循環往復して尽きることのない上達構造の方法論を可能にする理由は唯一つ、偏(ひとえ)にその武術的思想と体の用法を同じくするものであるからに他なりません。
仮に、この武術的思想と体の用法が異なれば、両者を一体のものとして稽古することは無意味であるし、またそのような発想も生まれて来ません。
譬えて言えば、空手と少林寺拳法、空手とボクシング、空手と剣術、空手と合気道などを両者一体のものとして稽古するようなものであります。双方とも戦いの思想や体の用法という観点から見れば、もとより共通点は無しとはしませんが、いかにせんその武術的思想と体の用法の違いは歴然としておりますので、やはり一つのものというよりは別個なものと弁(わきま)えて稽古した方が合理的であり、思想の混乱も起きません。
ところで、大正末期、日本本土に移入されたいわゆる空手は、上記したごとくの武器術(すなわち琉球古武道)との密接不可分の関係を全て除外し、かつ徒手空拳術(すなわち古伝空手)の核心たる武術的思想や体の用法を敢えて骨抜きにしたもの、言い換えれば、武術としての本質を完全に失った形で、かつ古伝空手の初歩的技法(型の動作は同じでも肝心の技法の真意が説かれていないの意)をもってスポーツ用に構成されたものです。
そのゆえにスポーツ空手(競技空手)としては大いに発展しましたが、本来の意味での武術空手(古伝空手)とは似て非なるものと言わざるを得ません。
スポーツ空手は、審判がいてルールがあり、一対一で同じ条件の下で優劣を競い、敗れても命を取られません。武術空手の想定にはそのようなものは一切ありません。何でもありの生と死の局面において、いかに臨機応変・状況即応するかが求められるのであり、敗れれば即、死という、いわゆる実戦の上にその術理が組み立てられています。
生と死は表裏一体という意味において我々の実生活は、まさしく実戦と言わざるを得ません。好むと好まざるとに関わらずそのような文字通りの実戦の日々を送る我々にとって何よりも重要なことは、いかに戦うか(いかに問題解決を図るか)の戦略的思考を鍛えることであります。とは言え、戦略的思考を鍛える「魔法の杖」など世界中のどこにもありません。あくまでも、自らの手と足と口を使い、自らの頭で考え創造してゆくべき性質のものであり、それ以外にやりようがないということです。
言い換えれば、(先人達がそうであったように)やはり実践的な武術の修行や戦争などの歴史をテーマにした幅広い自立的学習こそが戦略的思考を鍛え、独自の観点を養う決め手の方法と言うことになります。二千五百年前の兵書「孫子」を今日もなお、我々が学ぶのはまさにそのような意味合いがあるからに他なりません。そのゆえにまた、私たちが古伝空手(武術空手)から学ぶ技と知の体系には無限のものがあるということになります。
その意味で古伝空手はまさに護身術ということであります。とは言え、そもそもの護身の趣旨に相反するがごときの刹那的・一時的な勝ちはもとより無意味であり(いわゆる実戦はスポーツのごとく勝敗を決することによって終るわけでないからである。孫子はこれを、主は怒りを以て師を興す可からず。将は憤りを以て戦いを致す可からず、と論じています)、ましてやスポーツ空手のごとく狭いルールの中で強い、弱い、勝った、負けたを争うことを目的としているのではありません。
真の護身術というのは、実生活、即ち「人生、常に真剣勝負、四六時中、試されどおし」の場で遭遇するさまざまな危難に対処して事無きを得ることにあります。そのためには、その大本・本質である心身を鍛え、危機を察知できる感受性を磨くことであります。
言い換えれば、武術の修行を通して生死と向き合い、心身を覚醒させ、眠っている身体能力を引き出すということであります。
因みに、当道場が併設する孫子塾では、世界最古の名高い兵書・孫子兵法の通信講座をオンラインで行っております。
武術の窮極の目的・奥義は、孫子の曰う「戦わずして勝つ」にあることは言うまでもありません。古伝空手・琉球古武術の術理は、まさにその性質上、孫子兵法を理解するための適切な生きた教材となります。その意味ではオンラインの通信教育で単に概念として孫子兵法を学ばれる遠隔地の方々よりも、当道場において実際に古伝空手を稽古することははるかに効率よく合理的にその体系を理解することが可能となります。
逆に言えば、人生万般に通ずる孫子兵法を学ぶことは、実人生で直面するあらゆる諸問題に適切に対処できる脳力を開発するということでもあります。当会が古伝空手・琉球古武術の稽古を通じて孫子兵法の奥義を分かり易く解説する所以であります。
現実世界を左右する「戦いの構造」に興味と関心のある方、溢れる若さと情熱はあるが「戦う方法」を知らない若い方、空手経験者で、より深く空手を学びたい方、もう一度、空手を学び直したい方、空手未経験者で古伝空手・琉球古武道を学びたい方、はたまた中高年の方、男女を問わず歓迎いたします。
敢えて言えば、護身術たる武術が真に必要なのは、力弱き女性はもとよりのこと肉体的弱者への過程にある中高年の方々です。自分の身体を自分で守れることが精神安定の根本であり、ひいては健康を保つ基本です。武術を修練することは、言わば「転ばぬ先の杖」であり、「そうなる前にそうならないように手を打つ」ということであります。
※当HP内にて説明している空手とは、井上貴勝先生が運営され保存振興に努められております「唯心会」の空手術と体術の事になります。先代に於かれましても武器術・空手術共に井上貴勝先生に師事され、当HPでは便宜上「古伝空手」と呼称します。当館は唯心会空手道の川口支部でもあります。