※以下は、基本的に旧拓心観HPからの引用になります

Ⅰ:沖縄と琉球の名称について

 空手発祥の地・沖縄は、古代より阿児奈波(おじなわ)あるいは琉球(りゅうきゅう)などと呼ばれていました。「沖縄」と明記したのは、新井白石(1657〜1725)の「南島志」が初めてとされます。すなわち、「邦人、洋中を沖と称す。その地東西に狭く、南北に長く、洋中に縄を浮かべたるがごときをもって沖縄と名づけしならん」と。

 一方、琉球の名は、日本・中国の諸書に流きゅう(きゅうの字は虫偏に糾の旁:みずちで竜に似た想像上の動物)・流球・琉球・留球などと記されています。きゅう竜(きゅうの字は虫偏に糾の旁:みずち)の水中に浮かべるがごとき様を見て流きゅう(きゅうの字は虫偏に糾の旁)と名づけたと言う。つまり、沖縄は日本が名づけた名称、琉球は中国が名づけた名称と言うことになります。

Ⅱ:群雄割拠の戦国時代(グスクの出現と按司(あじ)の登場)

 その沖縄では、11〜12世紀ごろ、按司(あじ:大名・豪族的な権力者の意)と呼ばれる各地の小領主が相争う群雄割拠の戦国時代となりました。このため沖縄では中世の山城のような土塁や堀切を備え、石積みの堅固な城壁で防禦された「グスク」という独特の城塞が発達しました。

 沖縄には、この頃から15世紀にかけて築かれたと推定される大小合わせて200余のグスクが確認されています(因みに、奄美・琉球諸島では300余のグスク遺構が確認されている)。グスクの性格は一義的ではないが、少なくとも地域の支配者「按司(あじ)」がグスクに拠って政治的勢力圏を構成していたことは確かであります。
 ともあれ、東京都と同じぐらいの面積に大小合わせて200余の城跡(グスク)があるということは、沖縄の戦国時代が如何なるものであったかを雄弁に物語るものであります。
 裏返せば、かつて確かに沖縄は「武の国」であったという証左に他ならず、そのゆえに、空手・琉球古武術の淵源もまさにそこにあると解さざるを得ません。空手はともあれ琉球古武術の棒(棍)やティンベー・ローチンに関して言えば、その頃、既に存在していたことが『おもろさうし(古事記・万葉集・祝詞を併せたものにあたる沖縄最大の古典)』などに見えております。
 因みに、日本本土では、防禦施設たる石積みの城壁が発達するのは、16世紀後半の戦国時代のことであり、その意味において琉球の軍事技術は、12〜15世紀にかけて続いた激しい戦乱を背景にして、本土よりも一歩も二歩も先を進んでいたと言えます。

Ⅲ:三山鼎立の戦乱と隣国・明への朝貢

 ともあれ、それら大小の按司(あじ)たちは、様々に離散集合を繰り返しながら、やがて強勢な按司のもとに統一されていくようになり、14世紀の初めごろ(鎌倉時代後期)には沖縄本島を三分して、山北(さんほく)・中山(ちゅうざん)・山南(さんなん)の各勢力(ただしそれは一人の按司が支配していたというよりは大小の按司が連合してまとまっていた、言わば三つの政治的集団の勢力圏)が鼎立する状態となりました。
 1337年、推されて中山王となった浦添(うらじお)按司・察度(さっど)は、武力の強化を隣国・明に求め入貢しました(1372)。当然のことながら、これと競うかのごとく北山・南山も入貢しました。その回数は、中山が52回、南山が18回、北山が9回と記録されています。

 進貢は、小国が大国の明に服従の意を表す臣礼であり、その裏返しとしての冊封(さくほう)は、明が使者(冊封使という)を派遣してその国の王位を認証する儀式であります。この進貢・冊封の関係は、表向きには服従の臣礼ではありますが、実は莫大な利益を生む通商貿易であり、裏を返せば、名を捨てて実を取る政策であるとも言えます。
 沖縄と明(あるいは清)とのこの関係は、19世紀後半の琉球最後の王・尚泰の冊封時まで五百年間続きます。因みに、進貢船は那覇港を出帆し、久米島、魚釣島、膨湖島の近海を通って中国福建省に着きます。
 福建省(省都は福州)は昔のびん(びんの字はもんがまえの中に虫:この地方に住んでいた越人)の国で別名を東越(因みに南越とは今の広東・広西の地を言う)と称し、沖縄とは一衣帯水、海峡一つ隔てているのみで、地理的には最も近い省です。
 このゆえに沖縄から中国への通交はすべて福建省を窓口とし、省都の福州にはその中継拠点としての琉球館が1440年(室町時代中期)に設置されています。
 ともあれ、この三勢力は、それぞれ中国の明に朝貢し、中国・日本・朝鮮・東南アジアとの中継貿易を行うなど経済力・国力を養い互いに激しい戦いを繰り広げていったのです。  
 その対立抗争の激しさは、ついに入貢先の明の太祖・洪武帝(こうぶてい)をして三山の戦いを中止し民の安寧を図るよう命じているほどでありました。しかし、皇帝の命令にも関わらず、ついに戦いが中止されることはありませんでした。

Ⅳ:尚巴志による琉球統一と琉球王国の勃興

 この三山鼎立の戦乱の状態は長く続きましたが、やがて尚巴志(しょうはし)が歴史の舞台に登場し、1406年、察度(さっど)王統の中山王・武寧(ぶねい)を滅ぼして父・尚思紹(しょうししょう)を王位につけ、1416年には山北を、次いで1429年(室町時代中期)には山南王を滅ぼし、ここに沖縄最初の統一王朝が樹立されたのです。
 この王統は七世・尚徳王(1461〜1469)が逆臣、金丸・安里の両名に殺され、七代六十四年で終わりますが、この時代(応仁の乱が勃発するころ)沖縄に漂着した朝鮮人の見聞談には、王の軍士は甲冑を着け騎馬して、弓矢・槍・剣で武装し、軍器庫にはそれらの武器・武具の類が充満していたとあります。また、平素における武士の生活風俗について、(日本本土の武士の習慣と同じように)常に大小二刀を佩(お)び、行往座臥(ぎょうじゅうざが)それを片時も身より離さなかったと記しています。
 さて、尚徳王を殺した金丸は、重臣らの推挙により1470年、王位につき尚円王と称して第二尚氏を起こしました(これを第二尚氏王統と言う。この第二尚氏の王朝が明治まで続いた)。
 そして、1477年、尚円王の子、尚真が十三歳の若さで王位につき、1526年までの在位50年の間、中国をはじめ、日本・東南アジア・朝鮮との仲介貿易に力を注いで、莫大な利益を上げ、琉球王国の歴史の中で最高の文化と権力・財力を築いたのです。
 この尚真王が儒教による中央集権文治を始めるに伴って実施したのが武器携帯の禁止、いわゆる第一次の禁武政策です。彼は按司(あじ)の反乱を封じるために地方の按司を首里城下に居住させ、その下士団の武備態勢を事実上全廃させたのです。

 1509年(永正六年・日本の戦国時代の初め頃)、首里城内に建立された「百浦添之欄干之銘(ももうらそえのらんかんのめい)」第四項にある「護国の利器」という大義名分のもとにいわゆる刀狩を行い、士族・島民のもつすべての武器を徴発して王家武器庫に収納し、首里王府の厳重な管理下に置くことになったのです。武器を捨てた士族たちは、中国に習って制定された官人制・身分制度により、刀の代わりに冠の浮織(うきおり)・色、そして簪(かんざし)の材質などによって区別されることになりました。

Ⅴ:島津氏の琉球侵攻と幕藩体制下の琉球王国

 沖縄で第二次禁武政策が実施されたのは、それから約百年後のいわゆる「島津の琉球入り」後のことでした。即ち、豊臣秀吉が朝鮮征伐をする際、薩摩の島津氏も大挙出兵したのですが、そのとき島津氏は(禁武政策の影響で)武器を使い慣れない沖縄に出兵の見返りとして金銀兵糧の調達を命じたのです(島津氏はそもそも沖縄は先祖伝来のいずれ支配すべき領地だとしていました)。しかし沖縄が財政困難の理由でこれを拒絶したことを契機として、慶長14年(1609)島津氏の琉球征伐となったのです。
 その大義名分は、日明貿易の再開を強く望み、琉球による通商回復交渉への仲介を期待していた徳川家康の意向がにべも無く無視されたことにありますが、真の目的は、海外貿易によって得る沖縄の利潤に目をつけた島津氏が、これを従属国として積年の対琉球関係を清算するとともに、徳川幕府内におけるその独占的地位の安定と確保を図ることにありました。
 同年3月4日、家老の樺山久高(かばやまひさたか)を大将とする総勢三千人余りを乗せた軍船百余艘の島津軍が薩摩の山川(やまかわ)を出帆しました。島津軍は尚氏の王都・首里をいきなり襲わず、まず、琉球王国の統治下にあった奄美諸島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島)を攻め落としていき、背後から那覇を衝くという作戦に出ました。

 短期決戦を作戦方針としていた島津軍は、3月8日に奄美大島を制圧、22日に徳之島を、24日に沖永良部島を落とし、25日、運天港の対岸の古宇利島に着いて碇をおろしました。鉄砲隊の一斉射撃に島の人々は恐れおののき「棒の先から火を出して人を殺してしまう」と散り散りに逃げ去り、たちまち「島津軍強し」の報は増幅されて首里へ伝わったのです。
 奄美陥落の報を受けた琉球王府は、和睦の使いを薩摩に送ることにしましたが、時すでに遅く、26日、運天港に上陸した島津軍は、本島北部の要衝・今帰仁(なきじん)城に迫っていました。王府は今帰仁にも使いを送りましたが、島津軍の大将・樺山久高は和睦を拒否、守備兵五百の今帰仁城をたちまち陥落させ、29日早朝、運天港を出帆した船団は、作戦目的たる首里を攻略すべく南下しました。
 その日の夕方、大湾渡口に着いた船団は、ここで軍勢を二手に分けて海陸両道から首里城に迫り、4月1日、その城下に達しました。これに対し琉球王府を守る王府軍は、越来親方を大将として応戦したのですが、いかにせん、戦国の世に九州の雄として覇を唱え、朝鮮侵攻でもその武勇をもって謳われた島津軍を前にしては、(とりわけ二百年の泰平に慣れた王府軍にとって)抵抗する術も無く、たちまち総崩れとなって尚氏は降伏、4月5日、首里城を明け渡して島津の属国となったのです(因みに島津軍の死傷者は雑兵ばかり三百程度と言われています)。
 とは言え、島津氏のそもそもの琉球征伐の目的が中国との貿易による利潤の独占にあるため、中国側に気づかれないように、表面上は従来通り琉球王国の体裁が残され、島津氏はあくまでも裏面から実質的に琉球を支配するのでありますが、このことはまた、尚真王以来の禁武政策もより徹底した形で継承されたことを意味するものでありました。
 斯くのごとくして琉球は、貿易維持のため、王国の体裁は残されたものの、その実質は島津属国として日本の支配を受け、反面は、冊封(さくほう)によって中国の形式支配を受けるという言わば従属的二重朝貢の立場に追い込まれやがて明治を迎えるのであります。