※以下は、基本的に旧拓心観HPからの引用になります

Ⅰ:武術・技・兵法を意味する手(てぃ)と琉球古武術との関係

 「必要は発明の母」と言われるがごとく、武術の発達もまた、いつ敵に襲われても少しもおかしくない不条理極まる弱肉強食の時代にあって必要不可欠なものとして自然発生したものであり、とりわけその最たるものが戦争であることは言うまでもありません。

 たとえば、戦乱に明け暮れていた古代インドでは、武術を学んだり武器を研究したりしていたことが多くの古典などに記されているところであり、釈迦の伝記を見ても、少年のころに武術を学んでいたことが記録されています。このような普遍的な人間行動は、日本の戦国時代においても全く同様であり、日本武術の源流もまたこの時代の無数の実戦体験を踏まえて研究され編み出されたものであることは論を待ちません。 「沖縄史の考察」で述べたごとく、沖縄においても11〜12世紀ごろ群雄割拠の戦国乱世が始まり、いわゆる三山鼎立時代を経てようやく沖縄最初の統一王朝が樹立されたのは(日本が戦国時代に突入しようとする)15世紀の半ばごろであります。
 つまり沖縄では約三百年以上、弱肉強食の戦乱の時代が続き、この間、戦乱の主役となった三山割拠の按司連合は、合戦に勝利するために武力の強化を隣国の明に求めて刀・剣・槍・棍(棒)などの武器や武具を輸入していたことはすでに述べた通りです。
 この時、これらの武器や武具を有効に使用するための武術も取り入れられたことは蓋(けだ)し当然のことであり、従ってまた、この時代の武術は、主として刀・剣・槍・棍(棒)の術技が中心であったことは言うまでもありません。真境名安興(まじきなあんこう)の「沖縄一千年史」に、「棒法は遠く三山割拠の戦国時代より在りしことは、今に当時按司の使用せし模型物等の存するを以て知られる」とあるがごとしであります。また古代沖縄の社会を記録した史料『おもろさうし(古事記・万葉集・祝詞を併せたものにあたる沖縄最大の古典)』にはティンベー・ローチンと思(おぼ)しき武器の使用が見えております。
 そしてまた、手足の延長としての武器術がある以上、その根本としての無手空手の拳法も伝来したであろうことは論理の必然であります。つまり、中国では拳法を学ぶ者は武器を併せて学ぶことが常識となっており、武器は手足の延長であって、拳法と異種のものではなく、長短の武器を学んでこそ拳法の全てを理解できるものと言われているからです。
 因みに、いわゆる南派拳術(南派少林拳)の成立は早くても18世紀初頭の頃と推定されますので、三山割拠の戦国時代に沖縄にもたらされた拳法は、当然のことながらいわゆる北派拳術(北派少林拳)であったと考えられます。
 古い時代から沖縄には「てぃ(手)」と称する徒手空拳で身を護る武術があったと人口に膾炙されておりますが、まさにこの時代に渡来したと推定される中国・少林拳(因みに、この時代にはまだ北派・南派の区別は無い)こそ、この「てぃ(手)」の母体であり、沖縄固有の武術として「沖縄手(うちなーでぃ)・昔手(んかしでぃ)」とも称されてきたいわゆる首里手・泊手の祖形と考えられます。因みに、「手」とは日本語でも沖縄語でも「てだて・わざ・計略」などの意で武術や兵法に関する言葉として用いられます。
 言い換えれば、元々は外来の文化であってもその移入が大昔のことであれば、長い年月の経過とともに何時しか沖縄文化の中に溶け込み、自然に沖縄固有のものとして扱われていたということであります。たとえば、江戸時代の外来語である「たばこ、きせる、かるた、めりやす」などが何時しか本来の日本語である「和語」と混同されがちになるがごときものであります。
 ともあれ、(空手の発達から見た)この時代的区分における武術の存在意義は、命を取るか取られるかと言う文字通りの実戦における、つまり闘うことを義務づけられた軍人(いくさびと)たちの、言わば職業的な必要性に迫られたものと言うことができます。

Ⅱ:琉球古武術に関する俗説・巷説について

 因みに、このころすでに使用されていたと考えられている(空手と表裏一体の関係にある)琉球古武術の武器(八種)、すなわち、棒・サイ・トンファー・ヌンチャク・鎌・鉄甲・ティンベー・スルジンの起源について巷間さまざまな説がなされています。その代表的なものを挙げれば次のようになります。


①棒は、漁師の使う櫂(かい)や棒や竹竿(たけざお)、あるいは農夫が使用する天秤棒や大豆を叩く打ち棒を武器として利用する武術。
②ヌンチャクは、豆の殻を取るための穀竿と呼ばれる農機具が武器に転化したもの。
③鎌は、刈り入れや農耕に使う農具としての鎌を両手に持って戦う武術。
④トンファーは、粉を挽く石臼の把手(とって)を外して武器にしたもの。
⑤サイは、女性の護身用となる簪(かんざし)が武器に発達したもの。
⑥ティンベーは三山時代の戦闘法の名残の楯術が舞踊化したものであるとか、(ティンベーとセットで用いられる)ローチンは芋掘り用の細身の鋤(すき)や蘇鉄の身を削るヘラを武器化したものである。
 しかし、これらは無知の然(しか)らしめるところの大いなる誤解と言わざるを得ません。なぜならば、沖縄はその特殊な地理的歴史的な環境によって、古来、中国文化の影響を色濃く受けており、かつ、その中国ではずっと古くから上記と同様の武器が伝えられているという事実があるからです。
 明の茅元儀(ぼうげんぎ)が15年の歳月を費やして古今の兵書二千余種を編集整理して著した「武備志(ぶびし)」に、「全ての武術は棍法(棒術)を宗(大本)とし、棍法は少林を宗となす」とあるがごとく、そもそも人類最古の武器である棍(棒)は、有史以来、次第に棍(棒)法としての形を整え、それを基点として各種の武術が派生したであろうことは想像するに難くありません。
 ともあれ棒は、沖縄では「クン」と発音され、型の名称も「周氏の棍・佐久川の棍・添石の棍・末吉の棍」などであることからその源流が中国にあることは明らかであります。
 因みに、棒(棍)の一種に船を漕ぐ櫂(かい)を利用した沖縄語でエークと言う武器があります。その特異な形状ゆえに、通常の棒に比べ、とりわけ砂掛けや打突の側面において格段の威力を発揮する優れものです。エークは一般的に、(沖縄・海・舟・櫂というイメージのゆえか)沖縄独特の武器と解されているようですが、実は、然(さ)に非ずであり、残念ながらそれは独善的かつ一面的な見解と言わざるを得ません。何となれば、櫂を武器とし棍術の一種として用いるやり方は、独り沖縄に限らず、中国・浙江省などにおいても古くより伝えられ、今日もなお行われている方法だからであります。
 また、彼のブルース・リーで一躍有名になったいわゆるヌンチャクは、中国北方では「双節棍(シャンチェコン)」と言い、福建省では「両節棍」と書いて「ヌンチャクン」と言っています。これもまた中国渡来のものと推定されます。この他に、三本の短い棍をつないである三節棍、おなじく四節棍もあります。
 因みに、ブルース・リーが映画で使ったヌンチャクの技法は沖縄伝来のものとは全く関係ありません。沖縄の技法は携帯棒としての一本のヌンチャクを両手で操作するものであり、ブルース・リーのごとく二本のヌンチャクを両手に持って使うということはありません。
 両手を使っての各種の構えにより、左右いずれから攻撃するかを相手に察知されにくくしているところ、いわゆる「受け」の所作はなく、捌きによって相手の攻撃をかわしつつ打撃するところにその特色があります。仮にヌンチャクを両手に持った場合、(両手にもっているゆえに)どちら側の手で攻撃するのかが相手に丸見えになること、一本を両手で操作してもコントロールにやや難点のあるヌンチャクを各々の手で操作するということは、捌きつつ攻撃するというヌンチャクの特性が発揮し難くなるなどのデメリットが生じます。
 因みに、フィリピンにはKALI(カリ)と呼ばれる伝統武術が伝えられております。60〜70cmの短棒を両手、または片手に持って打ち合いながら、様々な動きを練習するものです。このフィリピンのKALI(カリ)の技術の一端としてヌンチャクに似た形状の武器(タバクトヨクと呼ばれる)があります。沖縄のヌンチャクが棍(棒)を扱うがごとく重く鋭く振るのに対し、タバクトヨクは、非常に軽快な振るところに特徴があります。ブルース・リーの場合は、このタバクトヨクの技法にヒントを得て映画用にショーアップしたものであります。因みに、彼が映画撮影時に用いたヌンチャクはプラスティック製の軽いものと謂われています。
 同様に、ティンベー、正確にはティンベー(楯)とローチン(短槍)を組み合わせたティンベー術も明らかに中国から伝来した武器と推定されます。すなわち片手に防御用の楯を持ち、片手に剣・刀などの攻撃用の武器を持って戦う武技は、もとより世界各地で見られるところでありますが、中国のそれは、楯という防禦兵器に、投げ槍・腰刀という長短二つの攻撃兵器を組み合わせたところに特徴があります。明の名将・戚継光はこのティンベー術を対倭寇戦用の秘密兵器として活用し、厳しい軍紀と集団戦法をもって倭寇を撃滅したことで知られております。
 なお、鉄甲・鎌・スルジンについては必ずしも中国渡来の武器とは言い切れませんが、(スルジンを除き)一対の武器を両手で操作するという術技の内容は明らかに中国武術の特徴を表わしているものであるため(武器の由来はともかくとして)その技法に関しては中国渡来のものと言うことができます。
 因みに、鉄甲は日本の忍者も使っていますが、起源がどこというよりも拳の威力をより強める必要性から洋の東西を問わず自然発生的に工夫されたものと考えられます。とりわけ琉球古武術の場合は、古伝空手の術理を最もストレートに応用できる武器ということになります。
 また鎌については次ぎのように言うことができます。すなわち、戦いは基本的に野外で行われるものであるため、繁茂する雑草や潅木の類を刈り払い合戦の陣場を構築するのに不可欠にして便利な道具が鎌です。のみならず鎌は、湾曲した刃で梃子の原理を用い、少ない力で大きな殺傷力を得ることができ、かつ相手の武器を引っ掛けて絡める特長があるため古来武器としても重宝されてきたものであります。琉球古武術には古伝空手の術理を応用しての二丁鎌があり、日本には鎌槍・鎖鎌・長柄の鎌などがあります。
 さらにスルジン(長鎖・短鎖)については次のように考えることができます。すなわち、人類史上、鉄が武器として登場すると、それまでの青銅製の武器は瞬く間に姿を消して行きました。鉄の特長が固くて強く折れ曲がらないところにあったからです。
 しかし鉄の利用という面からみれば、その特長(固く・強く・折れ曲がらない)は同時に短所でもあったわけです。その鉄がいわゆる鎖の形状をとれば、鉄は一転して、柔らかく折れて曲がりかつ強い素材ということになります。
 その特長を武器として遺憾なく発揮したのものが(一尋の短鎖または二尋の長鎖で相手の武器や首を絡めて片方が鋭利な刃物となっている柄部で突いたりする)スルジン術ということになります。因みに、日本では鎖鎌や万力鎖などがあります。
 いずれにせよ、古来、沖縄では(もとより中国でもそうですが)空手を学ぶ者は武器術を併せて学ぶのが常識となっております。上記した八種の武器はまさに手の延長であって、空手と異種のものではなく、長短の武器を学んでこそ空手の全てを理解できるものと言われております。

Ⅲ:平和時における琉球武士(サムライ)の自己練磨の手段として発展した空手と琉球古武術

 「矛盾(対立と統一)を含まぬどんな事物もなく、矛盾がなければ世界は無い」と言う唯物弁証法的論理を持ち出すまでもなく、三世紀以上にもわたった沖縄の長い戦乱の時代もようやくその終焉を迎え、尚真王の時代、いわゆる第一次の禁武政策(言わば刀狩)が実施されました。
 そしてそれから約百年後、島津氏の琉球入りに伴って再び徹底的な第二次の禁武政策が布かれ、そのまま明治の幕藩体制崩壊まで続くのです。
 ともあれ、中国から伝来した拳法、従ってまた、それと表裏一体の関係にある武器術を深く研究し、その特徴などを巧みに取り入れて編み出された沖縄独特の空手(言わば沖縄化された中国拳法)が発達したのは第一次禁武政策をもってその契機とする、と解するのが適当であります。
 もとよりその稽古は秘密裏に、かつ閉鎖的に行なわれていたものであることは言うまでもありませんが、その中心的な人々は(農民・漁民でも町人でもなく)刀を取上げられた武士(サムライの意)、なんかずく、親方(うえーかた)・親雲上(ぺーちん)・などいった大名・上級武士に該当する身分の者、琉球王統の武官など時間的・経済的に余裕のある上流階級の有志たちであったと伝えられております。つまりは、武士(サムライ・支配者)としての存在意義を追及することによる必然の結果としての武術の錬磨と言うことであります。
 取りも直さずこのことは、戦国時代が終焉し軍人(いくさびと)としての武士の存在意義(平和時における武士の職分)を追及した山鹿素行が辿りついた結論、すなわち「武士は生まれによって武士になるのではなく、行いによって武士となる」、言い換えれば、「武士は(生産的な業たる農・工・商に携わる人と異なり)道徳を究め道徳的な生き方を世の中に示すために存在しているのであり、模範的な生き方をしていない者は武士ではない」との考え方と軌を一にするものであります。
 すなわち、空手(武器術を含む武術空手の意)は禁武政策下にある琉球武士(サムライの意)にとって、人間の内面的な進歩発展を実践方式で図る、言わば生活の術であったと言えるのです。
 つまり空手は、知的探究心・肉体的鍛錬・護身術・感性の向上・求道的な心の深まりなど人格をつくり上げる要素を具有するものゆえに、「人格完成」と言う永遠の頂きを目指して己の意志と努力を唯一の友として生涯極めて行こうとする一種のシステムでもあります。
 因みに、松濤館流空手に伝えられる「五条訓」の第一条、「人格完成に務むること」とはまさにそのことを言うものであります。逆に言えば、人間の脳はその人の努力次第で年齢に関係なく変化するものであり、(そういった意味では)脳が完成するという日は永遠に訪れない。だからこそ完成に向けて一生努力していくのが「人の道」である、というわけです。
 言い換えれば、試合あるいは戦いの相手を外にではなく自分の内に求め、武術的・精神的修練を通して自分との厳しい戦いに打ち克つ努力を無限の道として示してくれるのが空手なのである。その意味では、空手は純粋に個人的武道であり、究極的には求道的な武道であり、まさに「剣禅一如(生の執着を断ち切る修練という意味においては剣の道も禅の道も同じであるの意)」という思想を追及するには最も適した武道であると言えます。
 この時代区分における空手の発達は、たとえて言えば、元和偃武(げんなえんぶ)以来、幕末までの約二百六十余年の間、全くの戦乱を見なかった泰平の時代にあって日本の武士たちが(道徳を究め社会に道徳を示す職分たる)自己のアイディンティティを求めて、行往座臥(ぎょうおうざが)、文武の道に勤(いそ)しむ日常生活を送り、柔術・剣術を初めとして戦国乱世に源流を持つ様々な武術が百花繚乱のごとく花開き発達したことと比肩することができます。
 ただ沖縄の場合は、それが禁武政策の下に行われていたという特殊事情のため、論理必然として徒手空拳の空手、およびそれと一体不可分の関係にある琉球古武術が併習されたということと、中国武術の教授形式たるいわゆる「拝師制度(弟子には一般弟子と正式弟子の区別があり、師が正式弟子として認可し師弟の契りを結んだ者のみがその流儀の秘伝を伝えられる仕組み)」の影響を受け、あくまでも秘密裏に、閉鎖的かつ家族的に稽古、伝承されていたと言うことです。
 ともあれ沖縄の空手は、いわゆる完全防禦・一撃必殺という技法上の極意を基本思想とする武術空手として生成発展してきたものであり、そのような思想を伝統的に絶えず強調しながら「修身・護身・体育の法」として歴史的に存在してきたものであります。
 このような思想を伝統的なものとして帯びる武術空手が、さらに著しく発達するようになった要因は、いわゆる島津の琉球入りに伴う第二次禁武政策以降のことであると解することができます。
 つまりは、王国として栄えてきた長い歴史的伝統を有し、民族の誇りを培ってきたところへ薩摩という侵略者が沖縄を占領し、あまつさえ、耐え難い政治・経済的圧迫を加えたことは民族的屈辱であり、その反発として伝統的武術空手をより厳しく鍛錬することによってその民族的誇りを見失うまいと志向したことは想像するに難くないからであります。
 このような特殊な時代背景のもと、沖縄の武術空手は、あくまでも秘密裏に行われてきたのであり、明治の中期ごろまで門外不出として人前で行われることは決して無かったと言われております。この頃の沖縄には、いわゆる「空手」という表記も、「からて」という言葉も存在せず、沖縄固有の武術を単に手(てぃ)と、中国渡来の拳術を唐手(とぅでぃ)と呼称していました。
 因みに、「からて」という名称は明治34、5年頃から県立第一中学校と県立男子師範学校に空手が学校体育として採用されるようになったとき、「唐手」と書いて「からて」と読ませたのが始まりと謂われております。
 彼の摩文仁賢和師はその著書「空手道入門」で、『それまでは沖縄においては拳法のことを「からて」と云ったことは無く、ただ単に「手(テ)」と云っていた。沖縄拳法のことを単に「テ」と称するのに対し、中国拳法を「トーデ」と称して区別していた』と述べられ、その意味では、むしろ、琉球拳法の意の「手(テ)」、もしくは「武士手(ブシディ)」とすべきであったとし、そのゆえに「唐手」という文字を廃し、「空手」という表記を採用して「徒手空拳」の意で用いて行きたい、と論じておられます。

Ⅳ:中国・南派少林拳の成立時期といわゆる那覇手の関係

 伝説によれば中国の南派少林拳が成立したのは、棍法・拳法の名門として名高い崇山(すうざん)少林寺が、1724年、「反清復明」や「覆清興明」を旗印とする革命運動の拠点と目されて清軍によって焼き払われた以後のこととされています。
 すなわち、弾圧を受けた少林寺の僧徒や革命家たちは、追手の及ばない遠方の地を目指して落ち延びて行ったのでありますが、とりわけ福建省や広東省などの南方の地は北方に比べて比較的に清朝の眼が届かぬところから、逃げ出した僧徒たちは南方の地に集まったと言われております。

 南方は運河が多く船が輸送や交通の中心となっているばかりではなく、船を住居にしている者も多く、常に移動している船は清朝の追及を逃れるための格好の隠れ場所となったのです。少林寺の僧徒や革命家たちはこのようにして逃げ延び潜伏しつつも革命成就の志を捨てず、行き着いた先々の地で同志を糾合(きゅうごう)しては拳法の稽古を続けていたのです。
 しかしながら、もとより逃亡・潜伏中の身ゆえ、かつてのように広地や屋外で伸び伸びと稽古することは叶わず、おのずからその場所も小さな船の中か屋内に限られて行き、拳法の技術も歩幅の狭い小さな技法へと変化して行ったのです。また、船の中で稽古すると必然的にバランスを取り易い姿勢になって蹴り技が使えなくなり、それらの変化によって成立したのが南派拳術、いわゆる南派少林拳であると伝えられています。
 これによれば南派少林拳の成立は早くても18世紀初めと言うことになります。因みに、台湾の拳法が戦後数十年を経ずして著しく隆盛を見るのは、毛沢東との国共内戦に敗れた蒋介石の国民政府が台湾に移転するに伴って大陸の各省から多くの有名な武術家が移住したことに起因するため、上記の南派少林拳成立の場合もまた宜(むべ)なるかなと首肯(しゅこう)せざるを得ないのであります。
 このことはまた、空手が著しく発達した第一次および第二次禁武政策の時代区分、すなわち16世紀において空手の祖形として稽古されていたものは、遠く戦国時代から伝来していた中国の北派少林拳の系統であることが推定されます。中国拳法の考察ですでに述べたごとく、北派少林拳の一般的特色は「長拳大架式(ちょうけんだいかしき)」であることから、これに該当する沖縄の空手は、その技法から見ていわゆる首里手・泊手と称されるものと言うことになります。
 言い換えれば、沖縄固有の武術で古来「手(てぃー)・沖縄手(うちなーでぃー)・昔手(んかしでぃー)」と称されてきたものは首里手・泊手の意と解されます。このことは、首里手の中興の祖・松村宗棍(1809〜1890)の空手を「沖縄手(うちなーでぃー)」と言い、那覇手の中興の祖・東恩納寛量(1852〜1915)の空手を「唐手(とぅでぃー)」と言って区別していたことからも明らかであります。いずれにせよ、手(てぃー)は、中国から伝来した北派少林拳の技術的特性を多分に残しながら、門外不出・秘密伝承のうちに独自の工夫が加えられて次第に沖縄化していったものと解されます。
 既に述べたごとく、中国の南派少林拳の成立は早くても18世紀初めごろ(日本の江戸時代中期の初めごろ)と考えられます。然らば、その南派少林拳、つまり沖縄で言う唐手(とぅでぃー)は、いつごろ沖縄に伝来したのかと言うと、(その地理的環境や交易状況、拳術への興味と関心の深さなどから見て)遅くても江戸時代中期の中ごろのことと考えられます。
 そのゆえに、この時代、沖縄のいわゆる空手は、古来、手(てぃー)と称されていたものと、新たに伝来した唐手(とぅでぃー)との二種があったと解されます。前者がいわゆる首里・泊手で、後者がいわゆる那覇手ということになります。両者は、その伝来時期や成立の経緯などの相違により、一見すると、その外形的なスタイルはかなり異なっているように見えますが、それはあくまでも表面的なことであり、(伝来の年代や北派・南派の相違はあるにしても)そのルーツはともに中国の少林拳ゆえに、本質的な意味での武術思想や技法は同じものであることは言うまでもありません。
 古来、日本や沖縄では、中国から渡来の物事に「唐」の字を添えて唐物(とうもつ・とうぶつ・からもの)と称して珍重しておりました。これを敷衍(ふえん)すれば、いわゆる手(てぃ)は、(そもそもの祖形が中国・少林拳の渡来にあるとしても)その呼称の意味合いからして古くより沖縄固有の武術の意と周知されていたものゆえに、新たに渡来した南派少林拳たる那覇手が既存の手(てぃ)との区別という意味で唐手(とぅでぃー)と呼称されたものと考えられます。
 因みに、唐物は平安時代には「からもの」と、江戸時代は「とうもつ・とうぶつ」と言われていたそうであります。そのゆえに、江戸時代中期の伝来と推定される南派少林拳たる那覇手は唐手(とぅでぃ)ではあっても唐手(からて)とは呼称されなかったということです。つまり空手の呼称は唐手(とぅでぃ)を「からて」と読み替えたものではないのであり、もし然りとすれば、「空手=唐手(とぅでぃ)」という図式になり甚だしく論理矛盾を来たすことになります。

Ⅴ:唐手(とぅでぃ)の言葉は、必ずしも那覇手のみを指す意ではない

 唐手(とぅでぃー)とは、必ずしも南派少林拳たる那覇手のみを指す言葉ではなく、那覇手以降、新たに渡来した北派少林拳のものにも当て嵌(は)まる言葉であると解することができます。

 これに該当するものとしては、江戸時代後期の初めごろ、北京進貢使の随員として前後五回上洛し北派少林拳と考えられる拳術を修め、唐手(とぅでぃー)佐久川と謳われた佐久川親雲上寛賀(1782〜1837)の場合を挙げることができます。
 唐手(とぅでぃー)佐久川は、いわゆる首里手系統の使い手とされ、彼の松村宗棍の師とも謂われております。また彼は「佐久川の棍」でも名声を馳せ、棒の佐久川として巷間有名であった伝えられております。因みに、琉球古武術には佐久川の棍(小・大・中)の型が今に伝えられております。
 この唐手佐久川の修めたいわゆる唐手(とぅでぃー)は、(那覇手と同系統の南派拳術・南派少林拳ではなく)首里手・泊手と同系統の北派拳術(北派少林拳)と推定されますので、その技法は次第に首里手・泊手の中に吸収・同化していったものと推測されます。
 逆に言えば、江戸時代中期の中ごろの渡来したと推定される南派少林拳(那覇手)にはそもそも吸収・同化すべき系統が無かったので、(首里手・泊手との相互交流・技法的影響は認められるものの)そのまま独自のスタイルを保ちつつ今日の那覇手として伝えられたものと解されます。。
 いずれにせよ、(南派少林拳の系統であれ、北派少林拳の系統であれ)いわゆる唐手(とぅでぃ)は、沖縄固有の武術と解されていた手(てぃ)・沖縄手(うちなーでぃ)・昔手(んかしでぃ)とは、明確に区別されていたものであることは明らかです。
 因みに、唐手(とぅでぃ)佐久川からさらに時代を下ること約70年後、後に那覇手の中興の祖と謳われた東恩納寛量が中国福州に渡って南派拳術を修めましたが、その空手は、いわゆる短手小架式を特色とする南派少林拳の影響が強いため、沖縄ではやはり唐手(とぅでぃ)、あるいは中国拳法と呼称され、在来の手(てぃ)とは区別されていたと謂われております。
 因みに、1867(明治3)年3月、最後となった冊封使(さくほうし)の祝典行事が首里崎山の御茶屋御殿で行われましたが、記録によればこのときいわゆる那覇手の型として「セーシャン」「シソーチン」「スーパーリンペー」が演じられています。つまり、1872(明治5)年頃と言われる東恩納寛量の中国渡航以前に、すでにこれらの型が沖縄に伝来していたということになります。那覇手の成立を江戸時代中期の中ごろ、と推定する所以(ゆえん)であります。
 なお、南派少林拳の唐手(とぅでぃー)という意味での範疇に属するものには上地寛文(1877〜1948)が明治43年にもたらした上地流を挙げることができます。
 いずれにせよ、「手(てぃ)」あるいは「唐手(とぅでぃ)」は伝統的に完全防禦・一撃必殺という技法上の極意である武道性を生成の基盤としてきたものゆえに、沖縄における廃藩置県(明治12年のいわゆる琉球処分)のころまでは、厳然として昔ながらの純粋な形が残されていたことは蓋(けだ)し当然のことであります。このゆえに空手は明治の中期ごろを境にして、それ以前を武術空手、それ以後を現代空手(スポーツ競技空手)と呼ぶことができます。
 蛇足ながら、いわゆる「空手」という表記は、沖縄では、明治38年(1905)、県立第一中学校の空手師範をしていた花城長茂師が「(武器術を外した)徒手空拳の相対練習法」の意で「空手組手」と表記したのを嚆矢(こうし)とし、本土では、昭和4年(1929)、慶応義塾唐手研究会(船越義珍師範)が慶応義塾空手研究会と改称したのが最初とされます。
 「空」の字義について船越義珍師はその著「空手道教範」の中で、『徒手空拳の意』、『仁義の哲学的理念の意』、『般若心経における「色即是空」の「空」に拠る意』と解説されております。
 ともあれ、「空手」という表記は、いわゆる手(てぃ)と、唐手(とぅでぃ)の双方を含むものであり、角度を変えて言えば、いわゆる首里手・泊手・那覇手を包含する概念ということになります。