※以下は、基本的に旧拓心観HPからの引用になります

【古伝空手と現代空手】


 日本では今、スポーツが花盛りでありテレビ・新聞等のマスメディアは連日、スポーツでなければ夜も日も明けぬ活況を呈しています。テレビで実況中継をする報道者の言葉、あるいは新聞紙面に踊る活字の見出しは、トップアスリートを対象とする勝敗への拘泥と記録重視のオンパレードであります。

 マスメディアはそれが生活の糧であるから百歩譲って致し方なしとするも、本来、そのようなことには何の利害関係もない一般の人々までもこれらマスメディアの論調に付和雷同してトップアスリートの動静に一喜一憂するがごとき現象はいささか滑稽であります。
 冷静な眼で見ると、権威に弱く、レッテルでしかものを考えようとしない日本人の民族的欠陥を感じさせる悲しい場面でもあります。
 もとよりこのような現象は、いわゆるスポーツ空手においてもそのままそっくり当て嵌(は)まるものでありますが、そのスポーツ空手が武道を標榜して行なわれているものゆえに、また、その主体者たちが(一般的に)権威に弱く、片面的かつレッテルでしかものを考えようとしない頑迷な思考構造の持ち主たちであるがゆえに、より問題を複雑にしているようであります。
 どのようなスポーツであれ、それがスポーツである以上、まずルールがあって、それを裁(さば)く審判がいて、その上で勝敗に拘泥し、記録に重点を置くというのが本質的要素であります。 
 つまりスポーツとは、(射撃・アーチェリーなどの例外的種目を除き)基本的には若さが絶対条件とされる世界であり、そのゆえにこそ若者が体力の限界に挑戦する姿は美しいし、尊くさえある。これを否定することはできません。
 このことはスポーツ空手においても例外とはなり得ず、勢い選手層も若者に集中するのも蓋(けだ)し当然ことというべきであります。しかし、このスポーツという本質を外してスポーツ空手が語られるとき、そこには聞くに堪えない自己矛盾の極みたる支離滅裂な論理が展開されるのであります。
 曰く、「今の突きは入ったはずなのに(あの審判は)なぜ取らないんだ」、「試合に勝ったが審判に負けた」、「(試合終了後の懇親会に参加していた選手の親が涙声で)先生、うちの子はなぜ負けたんですか。(その先生が答えて曰く)貴方のお子さんは悪くない。悪いのは審判だ」、「空手の基本なんかどうでもいい、審判にアッピールでき、いかにポイントを上げるかが重要なのだ」、「(審判の主観で決まる)組手なんてどうでもいい。型が上手(うま)ければいいんだ」、「型なんか下手(へた)でもいい。(競技ルールでの)組手が強ければそれでいい」のごときであります。

 

 また、それほど軽蔑している審判なら、いっそのこと審判資格も取らなければ良いのに、「今度私は○○連○○地区の審判資格に合格した。○名中たった○名しか合格しなかった。名誉なことだ」と誇らしげに自慢したり、あるいは欠員が生じなければ合格しないと言われている○○連の高段位に合格したからといって(稀有なこと、名誉なこととして大学空手界では名の通った人が子供のように喜んで)祝賀会を開いたりする等であります。
 しかし、それらは人間の愛嬌として百歩譲ったとしても、そもそも(スポーツルールとしての)寸止めの組手競技、同じく新体操の床競技にも比すぺき型競技のごときバーチャルなものに社会人たる大の大人が血道を上げることか、と大いなる疑問を感じます。しかも競技の中心を成す者は小・中・高・大学生であり、大の大人がやっているわけではありません。その大の大人たるや、自らは稽古せず背広姿の懐手(ふところで)のまま叱咤激励するのみでありますが、そもそもそれが指導者としてのあるべき姿かどうか疑問にすら感じようとしない。
 そのような大の大人が学校の部活動を担任している教師なら職業上当然のこととして理解できますが、そのような立場とは全く無縁の会社員が毎週土日にはあちこちの(平素の言動からすると軽蔑しているはずの)空手競技の審判に引っぱり出され嬉々として東奔西走しているようです。

 

 もとより何をしようとカラスの勝手でありますが、そのようなバーチャルなものにそれだけのエネルギーと時間をかけるだけの値打ちがあるのか、他にすることがないのか、他人事(ひとごと)ながら気になったので敢えて聞いて見ました。

 

 「そんなことをして何かメリットがあるのですか」と。答えて曰く、「交通費として二千円が貰える。しかし千円は試合後の懇親会費で初めから天引きされているから千円だけ貰える」。「それじゃあ、まるで持ち出しですね」。答えて曰く、「いやその後の懇親会で一杯飲めるのが最高なんだ」と。
 しかし、肝心のその懇親会の実情たるや、既述したごとく、そのような席でこそ語られるべき空手の本質論など一切語られず(語るべきものが無いというのが実際ではあるが)、ただその日の審判を酒の肴に、あの審判は良い、あの審判は悪いなどと愚痴の言い合いで深夜まで口角泡を飛ばしているに至っては、まさに何をか言わんや、であります。
 他人のことはともかく、自分自身の空手への情熱、空手の道の修行はどうするのか顧みようともしない。こんなお粗末な思考レベルの空手指導者が青少年はもとよりのこと、一人前の社会人たる大人の指導ができるのかどうか甚だ疑問であります。
 もっともこのような人たちが大人の空手の指導をキチンとしているとは寡聞にして聞いたことはありません。良く耳にするところでは、リーダーらしき人物が「今日はどんな練習にしようか」と参加したメンバーにお伺いを立て、その最大公約数の練習メニューを選択して、後は号令をかけるだけというパターンが多いようです。
 彼の聖徳太子の「和を以て貴しとなし、忤(さから)ふることなきを無きを宗(むね)とせよ」と言えば聞こえは良いが、もとよりこれではお世辞にも武道の指導や稽古とは言えません。まさしく単なるスポーツのトレーニングと呼ぶに相応(ふさわ)しいものであります。
 言い換えれば、世間一般の武道や芸事の世界で言う、いわゆる「お師匠さん」と呼ばれるような稽古内容の質がどこにあるのかということであります。
 そもそもスポーツは審判とルールという約束事で成り立っているものゆえに、その審判の判定を無視してはスポーツなど成り立つわけがありません。そして、その審判が人間である以上、どんなに注意しても誤審は避けられないのが実際のところであります。

 

 つまりどのようなスポーツであれ、実戦とは似て非なるスポーツに誤審はつきものであると解するのが正しい見方であります(イラク戦争などを見れば分かる通り、実戦では弾が当たれば死ぬか負傷するかであり誤審の余地など有り得ようはずも無い)。かつて、高校サッカーの岡山県大会で対戦校に実際にゴールされたのに、誤審でゴールではないと判定されて代表校となった高校が全国大会出場の是非をめぐり論議を巻き起こした例もありました。
 そもそも敗北すれば明日はない実戦と比べて、所詮、スポーツは娯楽・レジャー・歌舞音曲の類であり、負けても命が取られるわけではありません。当然のことながら、リベンジのための試合は、明日も明後日も明々後日も来月も来年もあるわけであるから、負けたことに一々悲憤慷慨する必要などさらさら無いのです。
 そもそも、審判に文句を言わせないような勝ち方こそ、スポーツマンの目指すべき勝ち方であり、実力が「団栗(どんぐり)の背比(せいくら)べ」のような状態ではどちらが勝とうが負けようが大した問題ではなく、文句をつける筋合いのものではありません。
 口惜(くちお)しければ、次には審判に文句を言わせないような勝ち方をすれば良いだけのことであります。
 自分の努力不足と怠慢を他人(審判)のせいにするなど、まさにスポーツマンシップの何たるかを弁(わきま)えない者の所業であり、己の見識の無さを表明しているものと知るべきです。
 それが武道を標榜しているスポーツ空手の指導者たちが堂々と口にして憚(はばか)らないところが日本人の真の意味での知性の無さ、逆に言えば、(日本の戦争責任に対する無反省と同次元のものとして位置づけられる)真に我々日本人が反省しなければならない民族的欠陥と言わざるを得ないのであります。
 もとより私は、スポーツ空手を否定するものではありません。たとえそれが欠陥のあるルールであるとしても、それを必要としている人もまた居ると言うことであります。すなわち、血気盛んでエネルギーの発散を持て余している中・高・大学生、あるいは若い社会人たちのなかには、何らかの形で勝負を競いたい、自分の強さを試して見たいと志向する者が少なからず居ると言うことであり、彼らの純粋で若さゆえの願望を充たしてやる場としてスポーツ空手は必要なのであります。
 しかし、それは既に述べたごとく、「優勝しました」「ああそう、良かったね」、あるいは「負けました」「ああそう、残念だね、次にはがんばれよ」という程度のものと心得よ、と言うことなのであります。
 スポーツ空手は、本質的に、中学生における部活動の延長のごときものであるため(それに入れ込んでいる選手・監督・父兄はともかくとして)、そのようなものに勝とうが負けようがどうでも良いことであります。
 それよりも社会人たる者は、自らの、そして家族の生存・生活が懸かっている本業(究極的には政治問題をも含む)で勝ち負けを争うべきであります。その辺の認識が甘いから、今日、ハローワークには職を求める人が溢れ、年間三万人をも超える自殺者の中には相当な数の倒産した小零細企業経営者が含まれるという事態が出現するのです。
 スポーツ空手ならぬ本来の武道空手は、人間の内面的な進歩発展を実践方式で図る言わば生活の術であり、修身・護身・体育の法であり、そこに流れている武術的思想はまさに生存・生活の懸かっている実社会での戦いを勝ち抜くための知恵の宝庫とも言うべきものなのであります。

 

 己の見識の無さを理由に、己の理解力の無さを言い訳に、単純にスポーツ空手にのめり込んで他の真実を顧みようとしない姿勢は「カラスの勝手」と笑って済ませられる問題ではなく、日本を甦(よみがえ)らせる熱い力としての武道をどのように活性化していくかという日本民族全体の思想上の重大事と位置づけるべきであります。
 たかがスポーツ空手と笑うこと無かれであります。その背景に横たわる事物の本質は、ひとりスポーツ空手の問題ではなく、本当は何も分かっていないのに「一を聞いて十を知った積もりになる」日本人の民族的欠陥を論ずる問題なのであります。
 東京の大手企業に勤める知人がこんな話をしていました。「いやー、本当に空手の指導者というのは少ないですね。うちの空手クラブの師範は○○連の○段ですが、この間、型ばかりではなく組手も指導してくれと頼んだら、彼曰く、私は型が専門なので組手の指導はできないと言われた。あれだから空手は馬鹿にされるんだ」と。

 

 しかし、そのような人物でも、どこかの空手試合で空手の演武をするとなると、派手派手な大きな看板に麗々しく「○○大先生、来る」と大書されるとのことであります。思うに、空手の指導者たる彼らは、仲間内ではお互いに「先生」と呼び合っているので、それらと区別するためにも「大先生」と表現せざるを得なかったのであります。
 とは言え、型しか知らないこの大先生が彼らの仲間内で評価を落とすことはありません。なぜななら、くだんの大先生は、○○連の栄えある全国大会の審判を務める立場にあるからです。審判のランクを上げることに血道を挙げている彼ら「先生」にしてみれば、その大先生は憧れの人であり、雲の上の人だからであります。
 およそどのスポーツを見ても選手より審判が偉いなど言って注目を浴びるスポーツなど聞いたことがありません。彼の「中田」が出場しているサッカーの試合で「中田」を見ずに、選手の後ろで走り回っている審判の動きに観衆の視線が注がれているがごときものであり、およそナンセンスな話であります。
 とは言え、彼ら「先生」に言わせると、空手の審判は(ランクが上がれば上がるほど)偉いのだそうであります。なぜならば「試合の技が見極められる人」だからでそうであります。

 

 どのようなスポーツであれ、それが見極められないから誤審があるのであり、見極められたらそれは最早「人」ではなく「神」である。なにゆえに、他のあらゆるスポーツに神が存在しなくて、ひとり、スポーツ空手のみに「神」が存在するのであろうか。ましてや、実際に投げたり、打ったりすることによって判定する柔道・剣道・日本拳法・テコンドー・防具付空手ならいざ知らず、当ててもいないスポーツ空手でどうして技を見極めると言い切れるのか理解に苦しむ。
 せいぜい「今の技は有効であると私は思う。審判である私が思う以上それは正しい」と言う程度のものであり、その実態は誰にもわからないというところが実際であります。このようなものはとても尊敬に値する内容とは言えず、もとより武道とは何の関係もありません。
 にもかかわらず、それを恰(あたか)も技を見極めたごとく振る舞い、そのように高言して憚(はばか)らないのは自分のアタマで物を考えようとしない無知蒙昧の輩(やから)につけ込んでの洗脳、はたまたオカルトの類であり、まさに新興宗教にも比すべきものと言わざるを得ません。

 

 このようにして洗脳された選手・父兄は、言わば「スポーツ空手教」教祖の敬虔(けいけん)な信者となり、「うちの先生は技を見極められる人」と本気で信じているようであります。このゆえに、試合に負けてもその教祖が「あの審判は悪い」と言えば無批判にそれを受け入れてしまうと言う珍妙な現象が生ずるのであります。
 それはまさに彼の「ゴットハンド」ならぬ「ゴットジャッジ」とでも言うべきおどろおどろしき代物(しろもの)でありますが、このように偏頗(へんぱ)にして歪んだ思想が白昼堂々とまかり通っているのがスポーツ空手の実態と言わざるを得ないのです。

 

 「何が正しく、何が間違っているのか」という原理・原則で動くのではなく、まさに「和を以て貴しとなし、忤(さから)ふることなきを無きを宗(むね)とせよ」に象徴されるがごとく、日本人特有のあいまいな大勢追随思考で動くため、結局は、マインド・コントロールされ、思考停止のまま「お上(組織の上位者)」の権威に盲目的に服従するという日本人の民族的欠陥が如実に露呈したものとも言えます。 
 ことほど左様に、空手の本質とは何かを無視し、ひたすら組織の拡大を目指し大衆迎合路線たるスポーツ空手をひた走るというボタンの掛け違いは、斯くも知性・品性に乏しい「先生」の集団を形成したのかと思うと日本の空手の未来に暗澹たる思いを禁じ得ません。
 とは言え、彼らに責任があるかと言えばそうではない。彼らは彼らなりに一所懸命にやってきた結果なのであります。煎じ詰めて言えば、日本にはその初めから正しい形での空手が伝わってこなかったということであります。
 大正11年(1922)5月、本土に初めて空手が紹介されてから早くも一世紀になんなんとする歳月が流れ去りました。この間、「空手」は広く一般に普及するという意味で驚異的な発展を見せ、今や名実ともに世界の空手とも呼べるものになっております。
 しかし反面において、真に日本の文化遺産と呼べる意味での空手が認知されているか否かと言えば甚だ心許ないものがあります。とりわけ、スポーツ空手(現代空手)をもって空手の本質と解する世界的な風潮は、とりわけ欧米の空手マンをして、(それが空手の本質なら)もはや日本には学ぶべきものは何も無い、とまで言わしめております。

 

 すなわち、スポーツとしの空手には武道的な理論も深みもなく、ましてや「禅」などに代表されるがごときの東洋的神秘性など微塵も感じられない。言い換えれば、(当てるか当てないかの違いはあっても)スポーツ空手とキックボクシング・ムエタイ(タイ式ボクシング)・K1・極真空手あるいは防具付空手、はたまた日本拳法・少林寺拳法などとその戦闘法・技法上の違いがどこにあるのかさっぱり分からないし、かつてこれに関し明快な説明を受けたこともない。

 

 つまるところ、いわゆる伝統空手と称するスポーツ空手(競技空手)は単なるスポーツに過ぎないのであり、その意味では体格・体力・身体的能力・芸術的センスに優れている自分たち欧米人の方が主流であり本家であり一日の長がある、という訳であります。
 そのゆえに、今、欧米では大きなスポーツ空手の競技会には、必ず併設して琉球古武道の演武会が開催されているといると聞いております。彼らは狩猟民族としてのDNAから本能的に空手と武器術は表裏一体であることを弁(わきま)えており、スポーツ空手から失われてしまった本来の意味での空手の武道性・神秘性を琉球古武術の中に見出そうとしているものと思われます。
 もとより琉球古武道には、欧米の空手マンが求めているがごとくの高度な武術性が内包されていることは言うまでもありませんが、それに限らず、徒手空拳の武術たる武道空手にもそのような武術的理合いが含まれていること論ずるまでもありません。言い換えれば、本来両者は陰陽一体、車の両輪のごとき関係にありますから、これを併修するところに意義があるのです。

 

 だだ、残念ながら日本に伝えられた空手は、(時代的な価値観のゆえに)初めから古武術的・武道的な要素を全て抜き去り、あくまでも学校体育・スポーツとしての空手であったということであります。かてて加えて、当時の空手は主として若い大学生(大学の空手部)を通じて普及したため、武術的にはどうみても初伝クラスの技でしかないものを本物の空手と思い込み(日本人お得意の一を聞いて十を知った積もりになる悪しき思考習慣)、若さと血気の趨くまま大学対抗の交換稽古が始まり、やがて「寸止め方式」としの競技空手(スポーツ空手)への道が模索されて言ったという訳であります。
 このようにして大いに発展したいわゆる伝統空手と称する現代空手(スポーツ空手)に対し、「あれは空手ダンスだ」と酷評して異を唱えたのが、「フルコンタクト空手」を標榜する彼の大山倍達の極真空手であり、そのフルコンタクトの系譜の中から派生したものが「K1」ということであります。そのような風潮に触発されたのか、現在、日本の各地では実に様々なルールよるスポーツ空手の競技会が試行されるようになり、まさに日本の空手界は百花繚乱のごとき様相を呈して参りました。
 と言えば聞こえは良いが、裏を返して言えば、まさに日本の空手界の混乱・混迷振りを物語る以外の何物でもありません。言い換えれば、「空手とは何か」と問われたときに、ムエタイやキックボクシング、日本拳法や少林寺拳法、はたまた中国拳法などとの違いを明確に解説し、空手の空手たる所以とその独自性を示せる人物が誰もいないということの証左であります。これを混乱・混迷と言わずして何を言うのでしょうか。

 

 このような奇観・珍現象を評して、さる沖縄空手の大家が「大正末期に日本本土に移入された空手は、武術としての本質を完全に失った形で構成されるのだという事実を空手界全ての人間が理解していなかったことに起因する」と論じておられますが、まさにくその通りであり、今日の混乱・混迷振りはまさしくその延長線上の問題であることを我々は銘記する必要があります。

 

 ともあれ、上記したごときの空手の歴史は、その手段・方法は異なってもつまるところ「ルールがあって審判がいる」というスポーツ空手の道を模索するものではあっても、「敗れれば即、死」といういわゆる実戦の上にその術理が組み立てられている真の意味での武術空手・武道空手の道を追究したものでないことは明らかです。
 空手が日本本土にもたらされてから、早や八十有余年、現代空手(スポーツ空手)という大衆化路線の名の下に世界的な普及を遂げたことはまさしく大成功というべきでありますが、逆に言えば、一つの大きな曲がり角に差しかかっているとも言えます。とりわけ、真に誇るべき日本の文化遺産という意味での武術空手・武道空手とは何か、言い換えれば、「空手とは何か」という原点が見直される状況が生まれつつあるということであります。
 逆に言えば、平素から「空手は武道である」と呪文のごとく高言して憚(はばか)らなかったスポーツ空手家の多くの方が、その言葉と裏腹に競技生活から引退すると同時に空手の稽古もまた中止してしまうという悲しむべき事実があるということです。
 そもそも、武道なるものは生涯を通じて追究してゆくものでありますから、競技生活を終えたことを奇貨として益々、本来の空手の武道性を追究するべく稽古に精出しても良さそうなものでありますが事実は全く逆であります。
 彼らの日頃の言動と相矛盾するような、まさに摩訶不思議な現象を合理的に説明するためには次のように考えるのが適当であります。
一、彼らが「空手は武道だ」と思い込んでいたのは、実はスポーツ空手そのものであり真の意味での武道空手では無かったこと。しかし、そのことに気がついていない彼らが一通りの競技生活を終えたとき「これで武道としての空手は一応マスターした」と錯覚しても別に不思議ではないこと。ゆえに、競技生活を引退したことが空手の稽古を止める理由となるわけであります。
二、もとより中には競技生活を止めてもなお空手への情熱を失わず自身の稽古を継続される方もおられます。しかし、彼らの追及している空手の内容は(上記の理由により)あくまでもスポーツ空手の延長線としてのそれであり、加齢に伴う体力の低下を鑑み回数を少なくするとかゆっくりやるとか所作を丁寧にやるとかという程度に過ぎないのです。
 たとえば、老いも若きも一同に会しての錬成合宿が行われたとした場合、若い中学生、高校生、大学生も、中高年たる三十代、四十代、五十代の大人も皆一様に同じスポーツ空手の打ち込み技を繰り出すというわけであります。
 もとよりその主軸が現役選手たる十代から二十代の若者に置かれていることは言うまでもありません。その意味では、現役を引退した三十代から五十代の中高年組は言わば付けたしであり、「刺身のつま」に過ぎません。
 そもそもスポーツと武道は異なるものゆえに両者の区別が生まれるのであり、とりわけ武道は若者専用のスポーツと異なり加齢と経験が益せば益すほど熟達してゆくものであります。しかるに上記のごとき珍現象が普遍的に見られるという現状は、いかに平素の高言が支離滅裂かということを物語るものであり、かつ「空手は武道なり」と主張する根拠が極めてあやふやなものと断ぜざるを得ません。
三、とは言え、(口にこそ出さないが)中にはスポーツ空手に大いなる疑問を感じている人もいます。言い換えれば、自身も「空手は武道である」とは言い続けてきたが、内心では「本当にそうだろうか、とても自信が持てない。武道とは何かが大きく違うような気がするが、それが何であるかを上手く説明できない。ともあれ、これまでのスポーツ空手から武道性を追究するのはどうも場違いのような気がする。この辺で別な武道でもやって見るか」という訳であります。
 このような人は大概、いかにも武道らしき概観を呈している居合道・古流剣術・合気道、はたまた杖道などに流れるようであります。少なくともスポーツ空手よりは武道性らしきものが追究できるのではないかと直感されての選択であると言えます。杖道に打ち込んでいるスポーツ空手OBの方にその動機を聞いたところ、「歳を取ると棒でも持たなければ若い人に勝てないですからね」と答えていました。

 

 そもそも真の空手とは武器を持って戦うことを本義とするものであり、そのための古伝空手であり琉球古武道であり、両者をセットとして稽古する所以があるのです。しかるにスポーツ空手の経験者はそうゆう当たり前の事実すら分からないということであり、またその方法も知らないということであります。
 
 しかし、求めるところは同じであるため武器を使うその具体的な方法として(琉球古武道ではなく)杖道を選んだという訳であります。とは言え、空手と杖道とはその武術的思想を全く異にするものゆえに、両者の間には(稽古の累積性・相互関連性という意味で)何の因果関係もないため、これまでの空手の経験に封印し、全く新しい武術に取り組むということになります。
 この事情はひとり杖道のみに限らず、居合道・古流剣術・合気道などにおいてもまったく同様であります。
 要するに、スポーツ空手で培った基礎的な技や力量をそのまま土台に据えて古武道的な空手を謙虚に学び、その力や技を武術的なものに上手くモデルチェンジするとともに、それを踏まえてさらに同じ武術的思想に基づいて構成されている琉球古武道を学ぶという方法に比べれば、(自分の得意とする武道の継続性の上に新たに武器を使えるようにするという意味において)前者の方法がいかに非効率・非合理的なものであるか論ずるまでもないということであります。
 しかし、悲しいかな、現実は上記のごときやり方が普通のこととしてまかり通っているということでありますが、取りも直さずこのことは、スポーツ空手はスポーツであって武道ではないという現実を証明するものであります。
 このゆえに、今、求められているものは「寸止め方式」のスポーツ空手(現代空手)でも、「フルコンタクト方式」の極真空手でもない第三の新しい空手のスタイル、すなわち、古伝空手と琉球古武道をあたかも陰陽一体・車の両輪のごとく併修することにより生涯にわたり真の意味での武道空手を追及できるシステムであります。

 

 逆に言えば、スポーツ空手に疑問を感じている人、スポーツ空手を引退したが生涯の友としてさらに空手を追究したい人、スポーツ空手はやりたくないが武術的な空手はやりたい人、日本の文化遺産と言う意味での古武道的な空手をやりたい人、空手は未経験者であるが生涯の武道として空手をやりたい人、などに対するいわゆる受け皿が今の日本には欠落しているということであります。

 

 そのゆえにこそ、スポーツ空手を引退すると同時に空手の稽古もやめてしまうケース、現役を引退しても稽古は続けているが、中高年になってもなお、小・中・高・大学生と同じレベルでの稽古をやらざるを得ないというジレンマに陥るケース、スポーツ空手は所詮スポーツゆえに、そもそも武道的なものなど求めても無駄だと悟り、それを求めて、たとえば居合道・古流剣術・合気道、はたまた杖道などの武道に転進するケースが多々見受けられるのであります。
 言い換えれば、古伝空手・琉球古武道こそまさにそのような人たちに対する理想的かつ最適な受け皿であると言うことなのであります。
 ともあれ、古伝空手・琉球古武道は、老若男女を問わず、誰でもが無理なく稽古ができ、かつ、修身・護身・体育の法として日常生活に役立つ、言わば兵法たる生活の術としての性格をもつものであり、まさに生涯における脳力開発の武道と呼ぶに相応しいものであります。

 このサイトでは、古伝空手・琉球古武道とは何か、とりわけその武術的思想を解説することと併せて、現在、多くの方々が現代空手(スポーツ空手)に抱いている疑問・疑念のすべてに明快な答えを提示することを目的とするものであります。


当HP内にて説明している空手とは、井上貴勝先生が運営され保存振興に努められております「唯心会」の空手術と体術の事になります。先代に於かれましても武器術・空手術共に井上貴勝先生に師事され、当HPでは便宜上「古伝空手」と呼称します。当館は唯心会空手道の川口支部でもあります。